ポランスキー ローズマリーの赤ちゃん
ホラー映画は怖いから見れない。
と書くと小さな男の子みたいに思えるが、れっきとした20後半の野郎である。
小学生の頃、ホラー映画好きな女の子がいて、その子が、リングだの、呪怨の話をしているのがとにかく恐ろしかった。いまだに僕は、あの頃をひきずっていて、ホラー映画と聞くとそれだけでなんだかうそ寒いような気持ちに襲われるのである。
僕はNetflixに加入していて、専ら映画ばかりを観ている。
Netflixオリジナル作品のクオリティは年々上がる一方で、思いつくだけでも「ROMA」「マリッジ・ストーリー」「アイリッシュマン」「マンク」など、名監督、名優たちが参加して、映画館に行かずに自宅で、アカデミー賞にノミネートされるような作品が見れる時代が来てしまった。
しかしそういった作品を観ていると、ふと何とも言えないような物足りなさを感じることがある。
いや、どれも面白いんだけど、なんかこれじゃねえんだよなあと言う時がある。
例えばスコセッシでも、「グッドフェローズ」とか「アイリッシュマン」「ウルフオブ〜」じゃなくて、「タクシードライバー」な時ってあるじゃないですか。
もうちょっと泥臭い感じというかなんというか。そういう作品の気分が。
と思って、なんかないかなあと思っているとポランスキー監督作品「ローズマリーの赤ちゃん」を発見。
前から観たかったが、ホラー映画っぽかったので何となく敬遠していたのだった。しかし今の気分には何となくピッタリな気がする。
観てみるととても愉快な映画だった。
悪魔、カルト、性の蹂躙。
いや、愉快と書くと語弊があるが、「あー、なんか観たいなこれだったんだ」という感覚。
しかし観終わると「これ、アリ・アスターやないかい」という感想が頭をもたげてくる。
ミッドサマーであり、ヘレディタリー。最近日本でも話題の2作が、まさか50年前にポランスキーが撮った作品にそっくりなのであった。
僕はホラー映画に詳しくないので、有識者からしたらこういうホラー映画の系譜があるのだろうが、詳しくは知らないので多くは語れない。
時折挟まれる、現実と悪夢の狭間のような映像や、やたらと多いセックスシーン。昔の映画は娯楽作でも監督の手癖の様なぶっ飛んだシーンが挟まれているのはよくあることであるけれど、そうか僕はこういう狂ったのが観たかったのかと思った。
僕はウディ・アレン作品に出ている時のミア・ファローは正直好きじゃないけれど(ダイアン・キートンが1番良い)、この映画のミア・ファローはとにかく最高だった。狂ったサイコスリラー映画なのに、やたらとお洒落な格好のミア・ファローは60年代カルチャーの妖精の様に画面を支配していた。
尚、ラストについてですが、完全に前述のアリ・アスター作品と同じだった。特にミッドサマーがより近い。
50年以上前の作品だが、今もポランスキーもミア・ファローも生きている。
ポランスキーはこの映画の数年後?にパートナーのシャロン・テートが殺害され、更にもっと後には児童ポルノの容疑でアメリカからヨーロッパへと国外逃亡。二度とアメリカに入国できない立場となっていて、それは2021年現在も変わらない(更に言えば、彼らナチスの民族浄化から生き残ったユダヤ人でもある)。
ミア・ファローもウディ ・アレンと結ばれた後に、養子の娘とウディ・アレンがベッドでコトに及んでいるのを目撃し離婚に至る。
しかし彼女は彼女で、ウディ・アレンとの実子ということになっていた「ローナン・ファロー」が、実は往年の大スターフランク・シナトラとの浮気で生まれた子だという噂が立っている(確か、当のローナン・ファロー自身は「自分の父親はシナトラ」と発言していたはず)。
結局何が言いたいかと言うと、事実は小説よりも奇なりという、何ともありきたりな感想である。
この映画を作り上げた中心人物2人の数奇な人生を思い、なんだかより良いものを見た気分になった。バグってるのって最高だね。
社風について
忙しさアピールというのは、自分の無能さを露呈させているだけだから無意味の極み。
だけど、どうしてもしたくなるのが人間の愚かさでもある。
色々と大変なことは重なり、休日出勤でバスに乗る。
私の会社は土日出勤は原則厳禁なのだが、尻に火がついている状況なのだから、背に腹はかえられない。バレると色々まずいが、間に合わないものは間に合わない。
二月というと、そこそこ寒いイメージが昔はあったけど、ここのところ暖かい日が続いていてとてもハッピーだ。
3社も経験すると、会社という組織には色々な人がいることに今更ながら気付かされる。
目には見えないし、なかなか表面的には出づらいが、間違いなく「社風」というものが、それぞれにあって、それに沿った様な人がちゃんと集まる様になっている。
今の会社はそこそこ大きいかもしれないが、くだらない人が多い。
必要以上のアピール、自己保身や、責任回避が連なってパレードをしている。百鬼夜行という言葉があるが、案外こういうものを具現化したものなのかもしれない。
一つ前の会社(2社目)は今よりもっと酷かった。
パワハラ上司に、3人しかいない事務所。
僕は一年と少し働いたけれど、それでも長い方だった。
やはり思い出すのは一社目の会社。
新卒すぐ、文字通り右も左も分からない僕が初めて社会人のイロハを教えてくれた会社だった。
今でもその会社の人とも、その時の担当先の人たちともよく連絡する。
結局、人間というのは不思議なもので、何年も経つと辛かったことなんてすっかり忘れてしまって、思い出すのは楽しかったことだけになる。
よくよく考えれば嫌だったことも山ほどあったはずなのに、そこらへんはよく覚えていないものである。
人間はこうやって「懐古厨」、「老害」と呼ばれる存在になっていくのだろう。
早く終わらせて帰ろう。
今日は久々に自炊をしよう。
中村哲 アフガニスタンの診療所から
コロナ禍で在宅が推奨される世の中だから、会社には割と人が来ない。
そんなご時世なのに、ノリノリで毎日出社しているのが僕である。
理由は色々あるが、出社してしまう最大の理由は集中できるからだ。朝が弱すぎて、自宅だと爆睡してしまう。家は眠い。眠すぎる。
だから、定時を越えると、事務所に一人でいることが多くなった。
本来は20人ほどはいるはずのオフィスには、PCも何もないデスクが手持ち無沙汰な風に並んでいる。誰もいないから歌を歌ったり、たまに踊ったりしている。それで急に寂しくなる。
家に帰って本を読む。
中村哲さんが、アフガニスタンで「ハンセン病」の治療にあたっていた話が書かれている。
僕は幼い頃を思い出す。
僕は幼い頃、ハンセン病の人をよく見かけていた。
車の窓に張り付いた彼らの顔を見ていた。
寂しい夜は更けていく。明日がすぐそこまで来ていた。
絶対に成功するウェブビジネス
僕は勉強だったり、本を読む時は喫茶店だったりファストフード店を使うことが多いんだけど、店内を見渡すと、ちらほら怪しげな二人組だの三人組が目につく。
彼らは熱心に顔を突き合わせて何やら深刻な話をしていたり、あるいはPC画面を覗き込んでいる。
僕は昔、コメダ珈琲で完全に詐欺と思われるウェブビジネスの勧誘に遭っている大学生を目撃したことがある。
如何にも金を持っていそうな若い男が、大人しそうな大学生を執拗に説得していた。
彼らの話を要約すると、早い話が今ここで百万円の支払いの契約書にサインしろとのことだった。
男の話は、赤の他人として横で聞いている分には面白くて、詐欺師の常套句の様な言葉を繰り返しいる様に見えた。
つまるところ、自分たちはクリーンである。絶対に儲かる・成功するということだ。
時間にすれば30分ほど僕の席の真横で話をしていて、ほぼ会話が筒抜けであったのだが、特に印象に残るのは彼のこんな説教のくだりがある。
「人間ってのは幼稚園児くらいまではなんでもやりたいことって実現出来るんです。それはやりたいことの規模が小さいからです。
例えば「自分の足で歩きたい」とか「歌を歌ってみたい」とかです。でも中学生くらいの年齢になると、それが段々難しくなってくる。挫折とかそういうものが付き纏ってきて、やりたいことに対する実現が「出来るひと」と「出来ないひと」とで別れてくる。あなたの人生でもそうだったはずです。
でも今日決断することで、自分への投資の百万を支払って頂くことで、今まで味わってきた、「他人はあんなに上手くやるのに」という悔しい気持ちをここで帳消しにすることができます。なぜならこのビジネスは100%成功するし、もうあなたは全てが「出来るの側」の人間になるんですから」
若干、うろ覚えだが、こんな感じのことを言っていた。正直、最初から最後まで眉唾しかない話であるし、話してる若者かthe軽薄そのものな風貌と話し方だったので、全く話に引き込まれなかった。正直、こんなやつに騙されるやつがいるのだろうか?と思った。
そこで僕が二人に割って入って、「じゃあ、アフリカでハゲワシに今にも食べられそうな少女がいたとして、その子が願えば好きなだけ食事が食べれるわけ?」と言ったら、男はどう言っただろうか?
「そんな極端な話をされても」と言われるか、はたまた無視か……。でも僕からすれば「絶対成功するビジネス」なんて、「ハゲワシに今にも食べられそうな少女」ばりのナンセンスで極端な話だと思うんですが。
前述の通り、二人は途中で席を立ったから、その話がどうなったかは分からない。
僕がひとりでマクドナルドにてポテトを頬張っていると、広めの席で、どう見ても友人同士には見えない、何やら難しそうな顔で話している数人のグループがいたりする。
彼らを見ていると、なんだか犯罪の匂いを感じてしまう。おそらくそう感じるのは、僕だけじゃないはずだ。
福岡市美術館 ポルト・リガトの聖母
先日、福岡市美術館へ行ってきた。
常設展にダリの「ポルト・リガトの聖母」の油絵が飾られていた。僕はダリの作品が福岡市美術館にあることは全く知らなくて、何の気なしに絵の前に立った。
それは写実的でありつつ、どこまでもシュールだった。
ダリと言えば溶けて歪んだ様な時計や、人とも動物とも取れない奇妙なオブジェクトが一般的に有名だと思うのだが(僕がそう思い込んでるだけな気もするが)、「ポルト・リガトの聖母」はまさに実写と見紛うほど写実的なマリアと幼いイエスが描かれている。
解説文によれば、そこに描かれたマリアの顔はどう見てもダリの最愛の妻「ガラ」であるとのことで、ここにはキリスト教世界的な意味での不道徳と、核に支配された残酷な世界があるという。
僕はすっかりその絵に見惚れてしまって、ぼんやりと10分くらい眺めていた。
見れば見るほど不思議で、脳みそがどうにかなりそうな気持ちだった。悪夢的で非現実的なオブジェクト。そして中央に配された、あまりに写実的なマリアとイエス(二人の胸のあたりはぽっかりと四角く穴が空いていた)。
8Kの映像は、人間の脳の処理が追いつかず、「本当にそこに存在するもの」と認識し、立体に見えると聞いたことがあるが、この絵も正にそれだ。
額縁という窓のすぐ向こうに、マリアとイエスが浮かんでいる様な。ダリの画力の凄さにただただ感動させられてしまった。
丁度、絵の目の前に椅子があったので、僕はそこに座って、またぼんやりと眺めることにした。
しかし、どうも既視感がある。そう思っていると気がついた。
「J.O.B Orchestra」のジャケットだった。
ちょっとしたアハ体験を味わい、外に出ると、日が沈みかけていた。大濠公園は緊急事態宣言だったが、それなりに人がいて、それなりの騒がしさだった。
公園が騒がしいという、ごくごく当たり前のことひとつが気になってしまう。早くコロナなんて終わって欲しいなと思いながら、僕は家路についた。
ある日、出会った人について
僕は今九州に一人暮らしで、すごく気ままに生きている。
思いつくままに好きなものを食べるし、好きに買い物をする。とても楽だし自由だ。
でも何故か不思議なことに、自由であればあるほどに人は怠惰になる様に出来ているらしく、特別に遊び回ったりすることもなく、休日はベッドでYouTubeを見たり、ぼけっとしている間に休みは終わっていた。
あれだけ好きだった本や漫画、映画でさえ手につかない。YouTubeで10分ないくらいの動画を見て笑っているだけ。いつからこんなに無気力になったのか思い出せない。
先日、(詳しくは書けないが)ちょっとした集まりみたいなのに参加して、そこでクリエイティブな仕事(と書くと馬鹿みたいな言い回しだが)をしてる女性と出会った。
彼女は僕よりも若くくて、溌溂としていて、とても尊敬できる考え方のひとだった。
3時間くらい話をして、「またお話できたら嬉しいです」といって僕らは別れた。その「次」が、本当にあるのかは分からないけれど、確かに僕はその数時間の会話で色々と思うところがあった。いつの間にかなくしてしまった感情みたいなものを思い出した気がした。
それでまたブログを書こうと思った。
くだらない話でもなんでも、しないよりマシだろうと思った。
いつの日か、もしかしたら会えるかもしれないあの人に、お礼が言えたら良いなと思う。